四万十からのつぶやき


Vol. 4 通りすがりの他人 un(e) etranger(e) qui passe par la

Hiroko Yamasaki


 先日、テレビで空き巣対策として街であいさつを交わしあう試みを繰り広げている地区が紹介されていた。空き巣が犯行を断念する場合の理由が「声をかけられたから」というのが多かったかららしい。空き巣対策として行われるというのも哀しい話だが、小学校の時など、『あいさつ週間』などと名づけられた週が必ずあった。

 思えば、私自身、声を出して挨拶というものを交わすことがほんとに少なくなった。いつからだろう。「社会」というもの対して警戒しはじめた時からではないだろうか。私の小さい頃はうるさく言われることもあまりなかったが、「知らない人に話しかけられても話しちゃだめよ」とか「ついてっちゃだめよ」とか子どもはいつも大人に言われているはずである。それでも、知っている人には挨拶をするし、挨拶をされたら無条件に返したものだろう。

 大学に入り一人暮らしが始まるともちろん周りは知らない人ばかり。授業がなくて昼間アパートにいたりするといろんな勧誘の人がやってくる。めんどくさいのも一緒になって警戒心は強くなる一方。おまけに隣に住んでいる人も知らない。すれ違っても挨拶もすることはない。挨拶をすると逆に変な顔をされる。『あいさつ週間』で学んだ挨拶はここでは活かされない。空き巣対策の挨拶運動を展開している人たちも多くは無視されていた。


パリにて

 面白いと思うのは、旅行に出た時である。海外であろうと国内であろうと、人に出会えば小学生の頃のように挨拶をしている。宿泊先ではもちろんだけれど、観光地でも順番などを待っていたりすると前後の方に「お先に」とか「どうぞ」とか口から自然に出る。開放的になっているからか、気持ちにゆとりが出ているからか、あるいは何でも話して少しでも情報を得たいと思っているからか。

 初めてのパリでウィークリーアパートに友だち3人で住み始めた時のこと。館内で清掃をしているファムドメナージュ(清掃係のおばさん)や、他の住人(旅行者かビジネスマン)ともすすんで挨拶を交わす。会えば誰であろうと”Bonjour!” 少しでも話したいから発音練習もかねて「ボンジュール」。エレベーターに乗り込む時も必ず挨拶。もちろん挨拶は返ってくる。どこかのCMではないが、挨拶をしたあとはとっても気持ちいい。

 ある日、状況が違った。
 いつものように朝3人でエレベーターに乗り込んだ。「ボンジュール!」とすがすがしく入り込んだが、乗り合わした全員から返ってきたわけではない。他の階の日本人の女の子たちがいた。彼女たちは私たちと目が合うと口をつぐんだ。他の国の人だったらおそらく彼女たちも挨拶が口からすべり出たことだろう。しかし、あえてその言葉は内部にのみ込まれたように見えた。日本人の中に植え付けられた他人に対する警戒心なのか、単に恥ずかしさなのか知る由もない。お互いバツが悪そうに早く1階に着かないかとエレベーターの数字だけを目で追っていた気がする。


 数年後、私はフランスの地方都市にいた。
 大学の寮に入ったのだが中心地から離れていたので、土地カンをつけようと初めのころよく中心まで出かけた。挨拶はというと、寮の学生たちやファムドメナージュたちとだけ交わしていた。

 そんな頃、よくすれ違うアジア人女性に気がつくようになった。外見からはいかにも日本人で、一人でさっそうと歩いている感じは住み始めて長いのかな?と思われた。

 町の広場や中心通り、本屋さんなどでもよく出会う。向こうが私に気をとめているようにも思えないのだが、私は勝手にアカの他人とは思わなくなっていた。そんな矢先、小さな通りで一対一ですれ違った。「こんにちは」と声をかけてみた…が、返事はなかった。日本人じゃなかったのかな、聞こえなかったのかな、フランス語で言えばよかったかな。私の試みは終わった。大学の授業が始まってからは、大学食堂以外で彼女をみかけることもほとんどなくなった。
 1年後、私は彼女ときちんと知り合うことになる。上級クラスにいた日本人だった。とっても親切でやさしく色々教えてもらった。


 見るからにフランス人でなくても、その町であろうがパリであろうが、よく呼び止められる。「タバコを持ってない?」「火はないか?」「ここに行くにはどう行くの?」
 地下鉄のプラットフォームに立っていたら、目の前の女性が別の女性に話しかけている。
 「その髪型どうやってやるの?」明らかにさっきまで他人だった二人の会話が始まる。
 バスで友だちとパンの話をしていたら、向いに座っていた人が「うん、あそこのはおいしいね。でも、○○のもいいよ」と参入。

 日本ではもうあまり見なくなった光景。田舎にいけばそんなことはないのだろうけど、今の日本では知らない人に声をかけるなんて珍しいこと。というより、怪しまれるよ。と、大学の隣町の出身の友だちに言えば、でも、フランスでも少なくなった方よ。この辺はまだ残っているかもしれないけど、昔はもっと話しかけやすかったし挨拶だってもっとしていたと思う。とのこと。

 挨拶を敬遠するようになったのは、挨拶を交わすことにより知り合いになり、それからおせっかいが始まり、こちらの想像以上にプライベートに介入されるようになることを懸念しての結果でもあるのではないか。まるで身上調査のような質問や詮索。そして、こちらが話したのだから同じようなことを話してくれないと!といわんばかりの目に見えない要求。


パリにて

 フランスは個人主義の国だとよく昔から言われてきた。留学や転勤で日本から来た人の中には、フランスの(とりわけパリの)冷たさに絶えられなくなり帰国する人が実際いる。こちらから頼らなければ助けてはくれない、とは私の実感である。それは、彼らは個としての線を引いていてむやみやたらとその線を乗り越えてこないからではないかと思う。自らの個を思うように相手の個を思う。
 例え、道ばたや公園で交わす”Bonjour!”がお義理的な要素を持ち合わせていたとしても、無条件に口から出てくるとしても、言葉を交わさないよりいいのではないか。

 GW中、道路沿いで地図を片手に固まっていた人々をみて、ふと思い出した『あいさつ』について。地図とにらめっこするよりも勇気を出してすれ違う他人に声をかけてみたら。その方がきっとずっと早いし、さらなる展開が待っているかも…。

juin 2003

photo by Yoshihito Nakano

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